岡倉天心は私が敬愛する日本人

彼の言葉を紹介します。

覚醒のひかり様よりからお借りしたものです。

岡倉天心




日々の暮らしぶり、そのなにげない仕草のうちに、内心の動きはあらわれる。



自分で偉大だとうぬぼれているものが
実はちっぽけなものにすぎないことが
わからない者は、
ちっぽけと軽んじている他人のものが
実は偉大なものであることを見過ごしがちである。



どんな木も、
もともとその種に含まれた力以上に
大きくなることはできない。
生きるということは常に自分自身に立ち戻るということなのだ。



宗教は未来を後ろ盾としているが、芸術では現在こそが永遠なのである。



古いものが解体されて初めて、再創造は可能となる。



歴史の中に未来の秘密がある。
我々は、我々の歴史の中に、
我々の未来の秘密が横たわっている
ということを本能的に知る。
変化こそ唯一の永遠である。



おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、
他人に存する小なるものの偉大を見逃しがちである。



人は己を美しくして初めて、
美に近づく権利が生まれる。



美しく生きてきた者だけが美しく死ぬことができる。



奉仕は愛情の最高表現であり、
愛は受けるよりも与えることを喜ぶ。



花は人間のように臆病ではない。
花によっては死を誇りとするものもある。
日本の桜がそうで、
彼らはいさぎよく風に身を任せるのである。



絵に良い絵と悪い絵があるように
茶にも良い茶と悪い茶があるのだ。
しかし、完璧な茶をたてる唯一これだけというやりかたがあるわけではない。



昔の賢者たちは決して体系的な形で教えを語ったりしなかった。
彼らは好んで逆説的な言い方をしたが、それは生半可な理解を恐れたからである。
また、わざと愚か者のように語ることによって、聞く者に悟らせるようにしむけたりもした。



自己中心的な虚栄というものは、芸術家、鑑賞者いずれの側であっても、共感を育むうえで致命的な障害となるのである。



現代の芸術家は、技術に溺れるあまり、滅多に自身を超えるということがない。



洋の東西を問わず、巨匠たちは、観客を自分の秘密にひきずりこむ手段として暗示の価値を忘れることはなかった。
それに比べ、今日あふれている凡作のよそよそしいことはどうだ。
傑作には、人の心の温かな流れが感じられるのに対して、凡作には、ただ、形ばかりの表現しか見当たらない。



日本がこの平和でおだやかな(茶道という)技芸にふけっていた間は、西洋人は日本のことを野蛮な未開国だとみなしてきたものである。
それが、近頃になって日本が満州を戦場にして敵の皆殺しに乗り出すと(日露戦争)、日本は文明国になったというのである。
近年、侍の掟――日本の武士が進んで自分の命を捧げる「死の術」――については盛んに論じられるようになってきたが、「生の術」を説く茶道についてはほとんど注意が払われていない。
無理解もはなはだしいが、やむをえない。
戦争という恐ろしい栄光によらねば文明国と認められないというのであれば、甘んじて野蛮国にとどまることにしよう。



日本は鎖国によって長く世界から孤立してきた結果、その分、深く自国の文化をかえりみることになり、これが茶道の発達を大きく促すことになった。
私たち日本人の住居、習慣、衣服や料理、陶磁器、漆器、絵画、そして文学にいたるまで、すべて茶道の影響を受けていないものはない。
日本文化を学ぼうとするなら茶道の存在を知らずにはすまされない。



茶道の本質は、不完全ということの崇拝――物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。
不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでもなにかしら可能なものをなし遂げようとする心やさしい試象が茶道なのである。